名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN レビュー!後編:フォークロックの黎明

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前回に引き続き、『名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN』レビュー後編です。後編では、1965年からフォークロックを開拓していくボブ・ディランと旧来のフォーク界との軋轢と、伝説の1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルまでです。

目次 この記事の内容

  • 1965年から始まる後編
  • エレクトリック化するアルバム
  • 私生活の変化
  • ライク・ア・ローリング・ストーン
  • フォークロックの黎明
  • 映画のその後と感想

1965年から始まる後編

筆者が投稿したこの記事の動画バージョンです。

再び舞台は都会に戻り、ボブ・ディランは愛車のトライアンフ500でパーティー会場に現れます。そこのエレベーターで、ボブ・ニューワースと出会い、彼のライブを見て、友人となります。

実は、このボブ・ニューワース、ジャニス・ジョプリンの曲を作曲したりしている経歴の持ち主で、当時のディランのツアーマネージャーをしていたことでも有名です。

エレクトリック・アルバムを制作するために、ディランが呼んだメンバーの中に、当時のアメリカ最高のギタリストの一人である、マイク・ブルームフィールドがいました。この人は、当時のポール・バターフィールド・ブルース・バンドのメンバーで、天才、と言われるギタリストでした。

しかし、映画の中ではあまり脚光を浴びていないため、そこは前面に出して欲しかったです(ギタリスト的には)。まあ、突然呼んだため、最初の招集には応じていないはずですが。当時のディランのフラストレーションは、プロテスト・ソングとも言われる政治的メッセージの強さという評判に対する反発が最初にあります。

また、ビートルズ、キンクス、ザ・フー、ローリングストーンズといったブリティッシュ・インヴェイジョンの影響によるロックの逆輸入など、アメリカの音楽シーンの変化、という問題もありました。時代が変わりつつあり、ディラン自身も変わろうとしていたのです。

エレクトリック化するアルバム

ブリンギング・イット・オール・バック・ホームのジャケット

ボブ・ディランがエレクトリック化したアルバムは、1965年発表の”Bringing It All Back Home”からです。ザ・バーズがカバーしたことで知られる、”Mr. Tambourine Man”などの曲が収録されているオリジナル曲のみの最初のフォークロックアルバム、とも言われています。

実はこの段階では、マイク・ブルームフィールドは参加していなかったはずです。後述しますが、次作以降になります。とにかく時系列的には、1965年1月にレコーディング、3月に発売した、ということです。ディランは、徐々に狭いフォーク界と訣別していきます。

ただ、少し描写が意図的にされていない部分があるとすれば、ドラッグ問題です。ディランは1964年頃から少しずつ、大麻などの薬物依存が始まっていました。1964年にビートルズのメンバーと出会い、相互に影響を与えています。

私生活の変化

また、シルヴィとの仲は破綻しており、ジョーン・バエズともギクシャクするようになります。ディランにとって、女性との問題もあり、かなり鬱屈した様子が描かれています。

そんな中、エレクトリック化することで、音楽の表現の幅を広げようとしていました。こうなるとピート・シーガーとの仲は徐々に変化していき、ディランはピートを敬遠するようになっていきます。

そもそもディランは、バンド経験もあり、ニューヨークに来る頃にエレキからフォークに転向した経歴があります。映画の冒頭でも、バンドサウンドを否定しない発言がありましたが、それはこのことを暗喩しています。

ピートはそんなディランが、ニューポート・フォーク・フェスティバルでエレキバンドで出演することを薄々気付いていましたが、説得すればバンドではなく、フォーク界のプリンスとしての姿で、出演してくれると信じていました。しかし、ディランはもう昔の自分に戻るつもりは無かったのです。

ライク・ア・ローリング・ストーン

実際にボブ・ディランが使っていた1964年製ストラトキャスターとの写真

ボブ・ディランのエレクトリック化を語る上で重要なアルバムが3枚あります。最初のフォークロックアルバム、”Bringing It All Back Home”、“Highway 61 Revisited”、”Blonde on Blonde”です。これらの3枚はエレクトリック3部作と呼ばれています。その中でも有名なのが邦題で言うところの『追憶のハイウェイ61』です。

実は後述する1965年7月のニューポート・フェスの段階ではこのアルバムは販売されておりません。タイミング的には、シングルカットされた”Like a Rolling Stone”が同じ7月20日に販売されたくらいです。


しかし、3月頃から始まったレコーディングで重要なことがありました。マイク・ブルームフィールドの参加、当時無名だったアル・クーパーのオルガン演奏です。アル・クーパーはこの後、マイク・ブルームフィールドと組んでスーパー・セッションというロック史に残る名盤を残します。

ただ、当時はアメリカ最高のギタリストである、マイク・ブルームフィールドが参加していたため、ギターでの演奏は必要とされていませんでした。そこで、アル・クーパーは即興でオルガンを弾いて、有名なライク・ア・ローリングストーンのオルガンリフを担当しました。

この話は実話で、ここは誰もが知っているところなので外せません。当時のレコーディング風景を再現していて、とても興味深かったです。また、この頃にボブ・ニューワースが持ってきたギターは、1964年製のフェンダー・ストラトキャスターです。僕の記憶だとローズ指板です。

フォークロックの黎明

1965年7月、ボブ・ディランはニューポート・フォーク・フェスティバルに出演するために、トライアンフ500でシルヴィの家に行き、彼女を誘います。そして、そのまま他のメンバーと合流します。

ジョーン・バエズとの共演時には、アコギでの弾き語りスタイルでデュオを披露します。シルヴィはその様子に耐えきれなくなり、そのまま帰ってしまいます。

実は、このときにポール・バターフィールド・ブルース・バンドもフェスに参加しており、そのままボブ・ディランの一時的なバックバンドになるのですが、その経緯が丸々カットされていました。

つまり、この時点でエレクトリックで演奏するのは決定していたことなのです。映画では、ライブ当日の朝に、ピートがディランを説得しようとするシーンがありますが、不発に終わります。

そしてライブ当日の7月25日の夜ヘッドライナー(大トリ)の、ディランとポール・バターフィールド・ブルース・バンド、アル・クーパーはエレクトリックで3曲を演奏します。その中にはもちろん、ライク・ア・ローリング・ストーンもありました。

その演奏の最中、主催者はディランのライブを妨害しようとする様子があります。これは以前、ドキュメンタリーでも証言されていたことです。もちろん音響を担当していたPA達は、そんな圧力に屈せず、演奏を止めませんでした。

そして、演奏を止めようとした内の一人に、ピートもいました。ピートの証言によれば、歌詞が聴き取りにくかった、とのことですが、映画では妻のトシにその行為を止められる描写がありました。

悲しかったのは、あれだけ仲の良かったディランとピートが対立したことです。後に再会する、というテロップが映画のラストに流れたので、少しホッとしました。

また観客のブーイングは凄まじく、こちらはその後正式にバックバンドとなったTHE BANDと共に回った世界ツアーの時に受けた、ユダ発言やエピソードが混ざっていました。THE BANDことホークスのリーダーのリヴォン・ヘルムが一時的にバンドを離脱したのも、ヤジに耐えられなくなったから、という証言が彼の回顧録に残っています。

昔ながらのフォークを愛する人達は、イギリスから逆輸入という形でロックサウンドが定着しつつある現状を受け入れ無かったから、ということなのですが、ディランはそんな偏狭なフォーク界に訣別するように最後、アコースティックで、It’s All Over Now, Baby Blueを歌い、怒涛の勢いで伝説のライブは終了します。

その翌日、ジョーン・バエズに「あなたの勝ちよ」と言われ、ボブ・ディランはトライアンフ500で会場を後にします。これまでの世界と決別したかのように。

映画のその後と感想

追憶のハイウェイ61のジャケット

2時間20分もの長い映画ですが、ボブ・ディランの波乱の4年間をうまくまとめた傑作映画だと思いました。ピークである、1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルまでにしたのも、まとまりがいいし、エピソードをてんこ盛りにしなかったことも良かったと思います。

そして、これまでのフォーク界の象徴としてのピートと、ディランの関係性を中心にしたこともテーマ性を際立たせる上で重要なピースとなっている、と考えます。更にティモシー・シャラメ演じるボブ・ディランがまるで本物のように演奏しているところも、素晴らしかったし、他のキャストもハマり役だったと思います。

そもそも2015年に、イライジャ・ウォルドが書いた”Dylan Goes Electric!”という本を原作に映画化したのが、この名もなき者です。監督は、ジェームズ・マンゴールドです。『17歳のカルテ』とか、『フォードVSフェラーリ』などで知られています。

また、1960年代の車や家財道具、そして、ディランのバイク、トライアンフに至るまで、当時の情景を描写する小道具やセットにもこだわりを感じました。ストラトキャスターや、楽器類も当時のもののレプリカあるいは本物などをうまく使っていました。

その後のボブ・ディランですが、1965年8月には追憶のハイウェイ61をリリースします。このアルバムはロック史に残る名盤となりました。そして、シングルカットされたライク・ア・ローリング・ストーンはディラン最大のヒット曲となりました。

1965年8月から1966年にかけての世界ツアーに帯同したのが、後にザ・バンドとなるホークスでした。ディランとホークスは、野次や妨害などを受けながらも、フォークロックという分野を開拓し、徐々に観衆に受け入れられていきました。

1966年7月29日には、ボブ・ディランはバイク事故を起こし一時的に休養をとります。そして、その後、ビックピンクと名付けられた家でザ・バンドと曲を書いたりセッションしていました。

そして、1967年にはディランの書いたジャケットの絵と、ディランから数曲の提供を受けたホークスが、THE BANDとしてデビューアルバム、ミュージック・フロム・ビック・ピンクでデビューします。このアルバムは多大な影響を音楽界に与えています。

そして、その後も精力的にアルバムを発表していたボブ・ディランは1974年から全米ツアーを敢行し完全に復活します。その後も活躍を続け、現在ではロックのレジェンドとしての地位を不動のものにしています。

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  1. ピンバック: 名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN レビュー!前編:若きボブ・ディランの軌跡 | K.T Dogear+

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