今回は映画、『名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN』のレビューをします。若きボブ・ディランが激動の1960年代でスターダムにのし上がり、ニューポートでエレクトリックを披露し、アメリカの音楽界を変えるところを描いた伝記映画です。前編では若きボブ・ディランがスターダムにのし上がるところまでです。
目次 この記事の内容
- きっかけは予告編
- 1961年から始まる物語
- スターダムにのし上がるディラン
きっかけは予告編
1月頃に、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX-Beginning-』の鑑賞をした時、映画館で流れていた予告編は、若き頃のボブ・ディランをティモシー・シャラメが演じているものでした。
ボブ・ディランと言えばアメリカのフォークロックを開拓したイメージのある、偉大なミュージシャンです。当時はフォークのミュージシャンが、バンドサウンドを導入することには勇気のいることで、これを行った人です。
ぶっちゃけ、バックバンドのTHE BAND込みで尊敬するミュージシャンの伝記映画なので、機会があれば鑑賞するつもりでした。さっそく帰ってから詳細をチェックし、スケジュールの調整をしました。
1961年から始まる物語
映画鑑賞前に筆者が投稿したボブ・ディランとバイクの動画
予定がついたのは、3/12の上映の日でした。近所ではやっていなかったため、TOHO CINEMAS橿原まで、バイクでツーリングがてら観に行きました。12:00から上映なので、10:00頃出発し、先にランチを食べてイオンモールで再販のガンプラ買ってから、映画館に入りました。
上映時間が2時間2-30分ほどあり、トイレ休憩が無い場合に備えて、通路側の席を取りました。事前にトイレに行って飲み物を買わずにいた作戦が功を奏して、結局トイレには行かなかったのですが、2時間を超える映画の場合はトイレ休憩が欲しいです。
予告編が終了すると、いきなり1961年のテロップが入り、ボブ・ディランが登場!ティモシー・シャラメ演じるディランは、まるで本物のような雰囲気があり、かなり仕草などが似ています。
最初はマンハッタンのイーストビレッジからです。というのもXでそのあたりで店をされていた方が呟いていたので間違いないと思います。ディランはそこから、ウディ・ガスリーのいる病院に行きます。
映画でのピート・シーガーはディランの父親のような存在
ウディ・ガスリーとは偉大なフォーク・ミュージシャンでその影響はアメリカの音楽史に残っています。ディランは彼に会いに行った病室で、エドワート・ノート演じるピート・シーガーと運命的な出会いをします。ピート・シーガーはフォーク・リバイバル運動の中心人物で優れたミュージシャンでした。
実は以前観たドキュメンタリーだともっと違う人のイメージがあったんですが、めちゃくちゃいい人でした。奥さんのトシは日系人で、こちらもとてもいい人で、理想的な家族でした。ウディ・ガスリーに捧げる、ディランの曲を聴いて、その才能に感嘆し、家に連れてきて色々なところに紹介していきます。
スターダムにのし上がるディラン
ジョン・ハモンドのいたコロンビア・レコードとの契約により、1962年に最初のアルバム、“BOB DYLAN”でデビューします。ただ、当時のフォークソングのレコードの常として、カバーが多く、その様子も描写されていました。
そういえば、レコード店でデビューアルバムが売れず、クラブに出演していたモニカ・バルバロ演じるジョーン・バエズのレコードが売れる光景が描写されていました。当時の話では、5,000枚くらいしか売れず、これはレコード会社が期待していた枚数よりも、大幅に少なかったということです。
ここで少しこの映画の虚実の部分として、当時のボブ・ディランの恋人として、エル・ファニシング演じるシルヴィという女性が出てきます。この人はたぶんですが、スーズと言う名前の当時のディランの恋人の代わりだと思いました。この人はセカンド・アルバムのジャケットで一緒に写っている女性だとも言われています。
ジョーン・バエズとの活動
そういえば、当時のキューバ危機の時に、ジョーン・バエズとディランは関係を持ちます。これは、確かにディランのスキャンダルな部分なのですが、キューバ危機の不安感からということになっていました。ジョーン・バエズがディランの曲を演奏するようになるのもこの頃からです。
またアルバート・グロスマンがマネーシャーとなり、活動の範囲が広がっていくのもこの頃でした。セカンドアルバム“The Freewheelin’ Bob Dylan”を1963年にリリース。このアルバムには初期の代表曲の1つBlowin’ in the Windなどが収録されていて、ここからチャートを賑わすようになります。
つまりボブ・ディランが世間に認知されていく流れを、中盤で描写していきます。レコーディングの様子などは、当時のやり方を再現しており、トラック数が少ない時代ならではの雰囲気を出しています。
個人的な経験では、バンドでリハスタでデモを録った時のやり方に似ている感じです。現代では、楽器毎にトラック数を重ねていくのですが、それはトラック数が多いからです。
1960年代でも中盤以降において、多トラックのレコーディングが可能になってからの話で、1964年あたりまでは、あってもせいぜい2〜3トラックのテープレコーダーの録音機材しか無かった時代です。ギターとボーカルをそのまま録っている光景は、その当時のものである、という事を再現しているからに他ありません。
そして、1964年にはボブ・ディランの人気を決定的なものにしたアルバム、“The Times They Are a-Changin'”がリリースされます。このアルバムは、邦題『時代は変る』というタイトルで、広く日本でも知られています。
そして、1964年のニューポートフォークフェスティバルで、ヘッドライナー(大トリ)をボブ・ディランが務め、その光景を我が子の晴れ舞台を見るように見上げるピートが映り、中盤までの話は一区切りします。まさにフォークの貴公子(プリンス)そのものの姿でした。
後編へ続く
ピンバック: ボブ・ディランとロックミュージシャンの関わりについて | K.T Dogear+