最初にDuane Allmanのことを知ったのは、デレク・アンド・ザ・ドミノスでのレイラセッションの凄みのあるプレイでした。当時の世界3大ギタリスト、エリック・クラプトンと2人で繰り広げられるインプロビゼーション合戦は、天才同士の究極のセッションでした。
■デュアン・オールマンのインプロビゼーション
そのレイラセッションを、アルバムにした“Layla and Other Assorted Love Songs”については、以前のブログに書いています。このアルバム、1曲がやたらと長いです。14曲中、6分以上の曲が5曲もあります。
なぜなら、デュアン・オールマンとエリック・クラプトンの強烈なツイン・リードという、曲が長くなるのが当たり前の編成だったからです。1970年当時、最高のギタリストの2人のセッションなんて、もったいなくてあまりカットできません。
実際、エリック・クラプトンは、デュアン・オールマンにデレク・アンド・ザ・ドミノスへの参加を打診しましたが、デュアン・オールマンは、自身のバンド、オールマン・ブラザーズ・バンドを離れられないので、断りました。2人は、その後も親交を続けます。
このレイラセッションで、一番気になったのは、スライドギターでした。デュアン・オールマンは、別名”Skydog“(スカイドッグ)と呼ばれるスライドギターの名手でした。
スライドギターとは、ボトルネックと呼ばれるガラス、もしくは金属の円筒を指に入れて文字とおりスライドさせて音を出す技法です。普通に押弦するよりも、サスティン(音の伸び)があり、高域にクセのあるトーンになります。
ブルースマンでスライドの名手といえば、エルモア・ジェイムスです。スライドギター好きならチェックしてもらいたいギタリストです。クラプトンもデュアンとのセッションで、スライドを披露しています。
デュアンのスライドギターは、オープンチューニングが基本です。オープンEが多く、メインのレスポールとスライド用のSGがあったようです。確かに、2本で使い分けた方がスライドはやりやすいでしょう。
■オールマン・ブラザーズ・バンドでの活躍
デュアン・オールマンは、スタジオミュージシャンとして、数々のセッションに参加していました。その中でも有名なのは、ウィルソン・ピケットのバックで、ビートルズのヘイ・ジュードをカバーしたことです。ウィルソン・ピケットは、デュアンのギターに驚愕し、”Skyman”と呼びます。
デュアンは、その容姿からdogと呼ばれていたので、この2つをブレンドしてスカイドッグというニックネームが付きました。
デュアン・オールマンは、1946年テネシー州ナッシュビルに生まれました。弟のグレッグ・オールマンの影響でギターを始め、1961年頃から音楽活動を開始します。
1965年にグレッグと共にオールマン・ジョイスを結成し、バンドはアワーグラスと改名します。2枚のアルバムをリリースするものの、バンドは解散し、デュアン・オールマンは、スタジオミュージシャンとして活動するようになります。
1960年代後期にフロリダにて、セッションをしている間に知り合った、ギターのディッキー・ベッツや、ベースのベリー・オークリー、ドラムのブッチ・トラックス、同じくドラマーのジェイ・ジョハンソンとバンドを結成することにしました。
そして、メインボーカルとオルガンを弟のグレッグ・オールマンが担当し、1969年3月にオールマン・ブラザーズ・バンドが誕生したのです。
1969年には、ファーストアルバム”The Allman Brothers Band“をリリースします。翌1970年には、セカンドアルバム”Idlewild South“を発表しますが、2作ともそこそこのセールスに留まります。
転機が訪れたのは、1971年にリリースした”At Fillmore East“(邦題フィルモア・イースト・ライブ)での成功です。1971年3月12日から13日にかけてフィルモア・イーストで行われた公演を、編集したライブアルバムです。
フィルモア・イースト・ライブは、1970年代にリリースされたライブアルバムの中でも秀逸な出来の名盤です。オリジナル盤の76分26秒の中には、代表曲である”Wipping Post”(ファーストアルバムの曲)、”In Memory of Elizabeth Reed”(セカンドアルバムの曲)などが収録されています。
どちらの曲もオリジナルよりもはるかに長い演奏時間となっており、ウィッピング・ポストにいたっては、23分ものインプロビゼーション合戦が繰り広げられています。
ツインギターに、ツインドラム、そしてオルガンという厚みのある編成で、3ピースのクリームのようなジャムセッションが可能だった理由は、バンドの結束にありました。
オールマン・ブラザーズ・バンドの初期メンバーは、同じところに住み、常にセッションできる状態だったのです。ライブでのパフォーマンスの素晴らしさは、こういった環境から生まれたものでした。
後に編集されたデラックス盤では、”Mountain Jam”という33分にわたる、ジャムセッションが収録されています。この曲は、オリジナル盤の”Hot ‘Lanta”同様に、メンバー全員の名前が作曲者クレジットされています。こういうところが、オールマン・ブラザーズ・バンドのいいところだと思います。
サードアルバムにして、ライブアルバムの究極と呼ばれたフィルモア・イースト・ライブは、ヒットしました。全米チャートの13位を獲得し、バンドは上昇気流に乗りました。
しかし、フィルモア・イースト・ライブが発表されてからわずか3ヵ月後の1971年10月に、バンドリーダーのデュアンが、バイク事故で亡くなります。急停車したトラックを避けようとして転倒したのです。まだ24歳の若すぎる死でした。
バンドは、ディッキー・ベッツがリーダーシップをとり、1972年に4枚目のアルバム”Eat a Peach“を完成させます。デュアンの遺作となるスタジオ録音曲3曲を含めたアルバムは、全米チャートの4位に入る大ヒットを記録しました。
オールマン・ブラザーズ・バンドはサザン・ロック(アメリカ南部のロック)の元祖として、レーナード・スキナード、アトランタ・リズム・セクションと並び称されています。
デュアン・オールマンは短い人生の中で輝かしい功績を残し、同世代や、後のギタリストに多大な影響を与えたのです。
■デュアン・オールマンの使用機材について
デュアン・オールマンといえば、ギブソン レスポールです。1本目の1957年製のゴールドトップは、ディッキー・ベッツの61年製SGに交換しています。3本目のチェリー・サンバーストは当たり年の59年製のスタンダードです。
デュアン・オールマンは、オールマンズ(オールマン・ブラザーズ・バンドの略)時代、スライド用にギブソン SGを愛用していました。SGはオープンチューニング用のサブとして使用していました。
アワーグラスや、スタジオミュージシャン時代には、フェンダーの66年製のストラトキャスターを、メインギターにしています。他にも、母親に買ってもらった59年製レスポール ジュニアや、ES-335、テレキャスターなど様々なギターを弾いています。デュアンは、かなりのギターマニアです。
アンプは、マーシャルの1969年製スーパーベースと、フェンダーツインリバーブで、ほとんどがアンプに直でプラグインしているようです。エフェクターは、ワウペダルやファズくらいではないでしょうか。
デュアンのギタープレイは、ブルーズを基本にしています。アワーグラス時代や、スタジオミュージシャン時代には、幅広い音楽をやっています。
ちなみに、デュアン・オールマンのバイクといえば、ハーレー・ダビッドソンのスポーツスター・XLCHの1970年仕様のチョッパーに改造したものです。
弟のグレッグ・オールマンは、2017年5月に肝臓ガンのために亡くなりました。享年69歳でした。天国で兄弟仲良くセッションしているのかも知れません。
※2019年8月追記
デュアン・オールマンが、使用していた1957年製のギブソン・レスポール・ゴールドトップが、100万ドル(1億650万円)で、オークションにて落札されたようです。ディッキー・ベッツのSGと交換したギターですが、ファンにはたまらないギターです。
しかし、クラプトンのブラッキーといい、ギターに1億円出せるセレブが羨ましいです。そういえば、ギブソンが後に作ったデュアン・オールマンのシグネイチャー・レスポールは、1959年製を模したものだったそうです。
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