前編に引き続き、ロックの歴史からUSとUKロックの違いを探っていきます。1960年代初頭、アメリカではロックンロールが暗黒期に入っている一方で、遠く離れた英語圏の島国で、白人の若者達がロックをやり始めていました。
■ブリティッシュ・インヴェイジョンの背景
ロックンロールが誕生してから7年過ぎ、イギリスにはビートルズという偉大なバンドがメジャーデビューを果たしました。ビートルズは、チャック・ベリー、リトル・リチャード、バディ・ホリー、エルヴィス・プレスリーなどのロックンロールに影響を受けています。
短期間で制作されたために14曲中6曲がカバーのアルバム、”Beatles for Sale“には、ロックンロールに影響を受けたビートルズらしい選曲があります。
チャック・ベリー1曲、リトル・リチャード1曲、ピアノ・レッド1曲、バディ・ホリー1曲、カール・パーキンズから2曲の合計6曲です。このことからも、ビートルズが、1955年以降のロックンローラーに受けた影響が絶大だったことが解ります。
ビートルズが、アメリカに進出するのは1964年のことで、CBSの人気番組エド・サリヴァンショーに3週連続で出演し、ワシントン・コロシアムとカーネギーホールでのライブも成功させます。そして、アメリカのチャートの1位から5位までを独占するという快挙を成し遂げるのです。
ビートルズから遅れること1年の1963年にデビューしたローリング・ストーンズもアメリカに進出したイギリスのバンドです。ローリング・ストーンズは、ロックンロールより、より黒人色の強いブルースに傾倒しているバンドです。
ビートルズと同時期の1964年に、アメリカ進出を果たしますが、実際にヒットしたのは、1965年発表のシングル”Satisfaction“からです。全米で4週連続1位を獲得した名曲により、ストーンズは全米での人気を確立しました。
その後、キンクスやクリーム、ザ・フーといったブリティッシュ・ビートが全米を席巻していきます。ブリティッシュ・インヴェイジョンが起こった背景は、黒人ミュージシャンを差別によって受け入れてこなかった白人層が、イギリスの白人によって作られたロック(ブリティッシュ・ビートもしくはマージー・ビート)に対しては寛容だったからです。
黒人が作ったブルースをベースにしたロックンロールを否定していたのは、白人の保守層でした。彼らは、若者に悪影響を与える音楽として、ロックンロールを頭から受け付けず、時代の変化についていけなかったのです。
私見ですが、人種差別というものを筆者も嫌っています。日本でも近隣諸国の人々に対して、人種差別的な発言をする連中がいますが、ロックを愛する者として、とうてい受け入れられるものではありません。
■ブリティッシュ・インヴェイジョン以降のアメリカ
ボブ・ディランとザ・バンド
アメリカのフォーク界のスターであったボブ・ディランは、1964年以降のブリティッシュ・インヴェイジョンの代表格、ビートルズやローリング・ストーンズと交流しました。
そして、1965年に5作目のアルバム”Bringing It All Back Home“で初めてエレクトリックバンドを導入します。そして、同年に発表した6作目の名盤”Higway 61 Revisited“で、エレクトリックサウンドを確立しました。
ボブ・ディランは、リヴォン&ホークス(後のザ・バンド)をバックバンドにツアーを開始しますが、フォーク界に対する裏切りととらえたファンからブーイングを浴びる結果となります。
このことが原因で、ドラムのリヴォン・ヘルムがツアー中に離脱し、ピアノのリチャード・マニュエルがドラムを担当するなど、大変辛いものだったようです。しかし、結果としてボブ・ディランと後のザ・バンド(リヴォンはファーストアルバム制作期に帰還する)は結束を高めていくのです。
ボブ・ディランの試みは、バーズや、ジョニ・ミッチェルなどのフォーク系のミュージシャンもエレクトリック楽器によるバンド演奏スタイルを取り入れていくきっかけを作ります。
そして、バッファロー・スプリングフィールドや、ポール・バターフィールド・ブルース・バンド(ボブ・ディランとも共演)といったロックやブルースに影響を受けたアメリカのバンドが次々と出てきます。
このように、本場であったはずのアメリカが、イギリスのバンドに影響を受けたのです。そして、相互作用としてのロックを体現する存在として大きかったのが、ジミ・ヘンドリックスのイギリス進出です。
■ジミ・ヘンドリックスと故郷アメリカ
ジミヘンは最初イギリスでスターとなった
ジミ・ヘンドリックスは、アメリカ生まれですが、1966年にアニマルズのベーシスト、チャス・チャンドラーに見出されて渡英します。アメリカでは、黒人差別が根強く、ジミヘンの成功は間違いなくブルース系のロックが流行していたイギリスに進出したためです。
ジミ・ヘンドリックスは、ベーシストにノエル・レディング、ドラムにミッチ・ミッチェルと白人のミュージシャンとザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成します。
ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスは出演したクラブで、ジミの卓越したギタープレイを見るために、ビートルズのポール・マッカートニーや、エリック・クラプトンやローリング・ストーンズなどそうそうたるメンバーが、列をなしたといわれています。
1967年のモンタレー・ポップフェスティバルで、アメリカで凱旋を果たします。イギリスだけでなく、アメリカでの人気を得たジミヘンは、本国でのライブも精力的にこなしていきます。
しかし、アメリカの黒人層には、白人と組んだ裏切り者扱いされていて、黒人の聴くラジオ局では、ジミの曲はかかりませんでした。当時の黒人の公民権運動によって、白人のフォーマットで成功したジミを批判する黒人が多かったのです。
ジミヘンにとっては、黒人の同胞からの批判は悩みの種でした。同じ黒人のミュージシャン、ハウリン・ウルフにも批判されていたようです。しかし、ジャズの帝王マイルス・ディヴィスは、ジミヘンのことを高く評価していました。
ジミヘンの例でもわかるとおり、黒人が好んで聴いていたロックは、徐々に白人が中心となっていきます。1960年代ではヒッピー層が支持し、広めていきますが、1970年代以降は、産業化して大規模化していくのです。
■USとUKの関係について
イギリスからアメリカに渡るレッド・ツェッペリン
イギリスのミュージシャンが、アメリカで成功する例として、レッド・ツェッペリンが挙げられます。レッド・ツェッペリンは、最初イギリスよりもアメリカで人気の出たバンドで、ファーストアルバム”Led Zeppelin“は、1969年1月にアメリカで販売され、本国イギリスでの販売は2ヵ月後の3月からでした。
アメリカとイギリスのロックシーンは、このように1950年代はアメリカが、シカゴ・ブルースとロックンロールという新しい音楽を生み出し、イギリスの若い白人ミュージシャンが模倣しました。
そして、1960年代になると今度は逆輸入という形で、アメリカの白人層を取り込んでいくことになるのです。相互に影響しあって初期のロックシーンは作られたといっても過言ではありません。
アメリカ南部のバンドである、オールマン・ブラザーズ・バンドやレーナード・スキナードをサザンロックといったりしますが、南部地方の特色のあるバンドの総称というとらえ方が正しいと思います。
YouTubeに投稿した、この記事の動画バージョンです。
UKとUSという区別についても、地方独特の特徴はありますが、あくまでも参考程度に留めておくべきでしょう。一般的には、アメリカのロックの方が明るめで開放的、イギリスの方が暗めでシニカルというイメージです。
しかし、ローリング・ストーンズのようにアメリカ人受けしそうなバンドがイギリス出身だったりしますので、バンドの個性によっても変わるので、非常にややこしいです。
アメリカのバンドの方が原型となる音楽に触れる機会が多く、イギリスは独創性が高いという違いを感じることはあります。
また、アメリカとイギリスでは同じ英語圏といっても地理的な問題があります。1970年代以降のシーンでは、アメリカの地方ごとに様々なシーンが生まれては、特色を作っていきます。
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