ボブ・ディランとロックミュージシャンの関わりについて

アメリカのフォークの貴公子ボブ・ディランは1965年から1966年にかけてフォークロックの名盤ともいわれる3枚のアルバムを発表しました。今回は、ボブ・ディランと関係の深いロック・ミュージシャンについて語りたいと思います。

ザ・ビートルズとの関係

ボブ・ディランに影響を受けたビートルズ

イギリスの偉大なバンド、ザ・ビートルズは、1964年8月の全米ツアー中に、ボブ・ディランと初めて会いました。場所は、マンハッタンのデルモニコ・ホテルです。ビートルズの各メンバーは、1964年1月のフランス公演の際に、”Freewheelin’ Bob Dylan“(ボブ・ディランの2作目のスタジオアルバム)を入手してから、ディランの大ファンでした。

このとき、ボブ・ディランは、ビートルズに向かって「君たちの音楽には主張がない」と言ったそうです。当時のアメリカは、フォーク・ミュージックによる社会への影響が高まっていた時期で、ディランはその旗手といわれていたのです。

ジョンは、ディランに多大な影響を受けて、曲を書くようになりました。アルバム“Beatles for Sale”の”I’m a Loser”や、”Help!”の”You’ve Got to Hide Your Love Away”などです。

アルバム全体で、ディランの影響を受けて変化したのは、1965年に発表されたビートルズ6枚目のスタジオアルバム“Rubber Soul”でしょう。歌詞のメッセージ性はボブ・ディランから、東洋音楽への傾倒は、バーズのデヴィッド・クロスビーから、それぞれ影響を受けたといわれています。

しかし、ボブ・ディランとジョン・レノンとの関係は1966年5月に微妙なものとなります。撮影のために、リムジンの後部座席で会話していた2人ですが、過剰な薬物摂取でまともなやりとりが出来なくなってしまったのです。特にディランの調子が悪く、ジョンとの関係が微妙なものとなった出来事でした。

Eat The Document“と呼ばれるボブ・ディランのドキュメンタリー映像のために撮られたものですが、この場面はカットされています。それでも海賊版などで、流布されています。

一方で、ビートルズやローリングストーンズに受けた影響から、ディランは1965年から1966年にかけて“Bringing it All Back Home”や、”Hiway 61 Revisited”に続く”Blond on Blond”といったフォークロックの名盤ともいわれる3枚のアルバムを発表します。

フォーク・ロックという新たな境地を開拓したディランでしたが、アメリカ国内のフォーク愛好家からは、非難されるようになります。しかし、これまで以上の新たなファンを獲得したのも事実で、ディランのバンドサウンド導入は、アメリカにおける音楽史のターニング・ポイントとなりました。

マイク・ブルームフィールドとアルクーパーとの関わり

出典 https://www.amazon.co.jp/ マイク・ブルームフィールドとアル・クーパー、スティーヴン・スティルスのジャム・セッションアルバム

ボブ・ディランが、初めてロックサウンドを導入したアルバムは、5枚目のスタジオアルバム、“Bringing It All Back Home”からです。有名な6枚目のアルバム“Highway 61 Revisited”で大きく変わったことがあります。それは、マイク・ブルームフィールドと、アル・クーパーという特異な才能を持ったミュージシャンが参加していることです。

マイク・ブルームフィールドは、以前も紹介したことのある、優れた白人のブルースギタリストでした。当時のマイク・ブルームフィールドは、バターフィールド・ブルース・バンドに加入していました。

1965年6月から始まった、Highway 61 Revisitedのレコーディングに参加し、非凡なギターを弾いています。アル・クーパーは、同じくHighway 61 Revisitedのセッションにオルガンとして参加し、マイクと出会ったのです。


アル・クーパーは、本来はギタリストで、ソングライターでした。マイクのギターテクニックの前に、ギターでは太刀打ち出来ないことを悟り、”Like a Rolling Stone“で即興でハモンドオルガンを演奏してみたら、そのテイクがそのまま使われたという逸話が残っています。

マイク・ブルームフィールドと、アル・クーパーは、1965年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルにディランのバックとして参加しています。マイクは、ディランにメンバーとして活動することを打診されますが、バターフィールド・ブルース・バンドの活動があるために断ります。

アル・クーパーは、1966年に発表された7枚目のディランのスタジオアルバム、“Blonde on Blonde“にも参加しています。その後、マイク・ブルームフィールドと、アル・クーパーは、1968年に”Super Session“を発表しました。

スーパー・セッションは、ロック史上初のジャム・セッションアルバムとして音楽史に残る名盤となったのです(後半はスティーヴン・スティルスが参加)。

ザ・バンドとのビッグピンクでのセッション

ライブツアーでのボブ・ディランとザ・バンド

ボブ・ディランのバックバンドといえば、ザ・バンドです。1965年当時、ザ・バンドは、ホークスとして活動していました。そのライブ活動が、ジョン・ハモンドの目に留まり、ボブ・ディランのバックバンドとして活動することになるのです。

1965年から1966年にかけてのワールドツアーで、ディランとホークスは電子楽器を嫌うフォークファンからブーイングを受けます。演奏中に、リズムを崩すような手拍子をされたり、曲の間の転換の時に罵声を浴びせられたりしていました。

ホークスのリーダーだったリヴォン・ヘルムは、そういったツアーに耐え切れなくなり、一度バンドを脱退します。このとき、ミッキー・ジョーンズが一時的にリヴォンの代わりに参加します。

1966年のイギリスでのロイヤル・アルバート・ホールでの演奏は、後にブートレグシリーズとして、The Bootleg Series, Vol. 4: Bob Dylan Live, 1966: The”Royal Albert Hall Concert”という2枚組みのアルバムとしてリリースされています。

1966年5月にリリースされたブロンド・オン・ブロンドには、ホークスのロビー・ロバートソンも参加しています。しかし、1966年7月にディランはトライアンフのバイクで事故を起こし、隠遁生活を送ります。

ウッドストック郊外で隠遁していたディランは、ホークスのメンバーを呼びます。ロビーは、既に後に妻となるドミニクとウッドストックに住んでおり、ベースのリック・ダンゴ、ピアノのリチャード・マニュエル、オルガンのガース・ハドソンの3人が遅れてウッドストック近郊にやってきました。

セッションをしたといわれるビッグ・ピンク

リック、リチャード、ガースの3人が住んでいたピンクで塗られた家が、「ビッグ・ピンク」と呼ばれており、有名な地下室でのセッションを行うようになるのです。リヴォン・ヘルムは、まだバンドに復帰しておらず、ドラムはリチャードが叩いていました。

ビッグ・ピンクでのセッションは、ロック史上初のブートレグ(海賊盤)”Great White Wonder“として出回っていました。しかし、1975年には”The Basement Tapes“として正式にリリースされています。

このときに作られた曲が、ザ・バンドと改名したホークスにとってのデビュー・アルバム“Music from Big Pink”に収録されています。1曲目の”Tears of Rage”、10曲目の”This Wheel’s on Fire”は、ディランとザ・バンドのメンバーとの共作で、11曲目の“I Shall be Released”は、ディランの単独で作曲した名曲です。

ディランは、ザ・バンドのファースト・アルバムに曲を提供するだけでなく、ジャケットの絵まで描いていました。ミュージック・フロム・ビッグ・ピンクのレコーディング中に戻ってきたドラマーのリヴォンも含めて、辛い時期を共にしたメンバーとの絆の深さがうかがえます。

1968年にリリースされたミュージック・フロム・ビッグ・ピンクは、同時代のミュージシャンに多大な影響を与えました。ビートルズのジョージは、ボブ・ディランに薦められたミュージック・フロム・ビッグ・ピンクを大量に購入し、「これは傑作だから絶対に聴け」と周りに配ったといわれています。

ジョージの親友のエリック・クラプトンも、このアルバムに衝撃を受けた1人で、クリームの解散後の音楽の指標としたのです。ディランと共に参加した1969年のワイト島フェスティバルにおいて、ポールを除くビートルズのメンバーとも親交を深めます。

ザ・バンドは、2枚目のセルフタイトル”The Band“を1969年にリリースします。このザ・バンドも名盤で、バンドは一気にスターダムにのし上がることとなります。

1974年にディランがリリースしたアルバム、”Planet Waves“ではザ・バンドのメンバーが1曲を除いてバックを担当して録音されました。そして、ザ・バンドは再びディランとツアーをします。

このツアーの様子は、”Before the Flood(偉大なる復活)“に収録されています。1976年のザ・バンドの解散コンサート、”The Last Waltz“でもディランとザ・バンドは共演しています。

ロック史におけるボブ・ディラン

フォークの貴公子だったころのディラン

1950年代にアメリカで発生したロックンロールが、1950年代末から1960年代中頃にかけてエルヴィス・プレスリーの徴兵や、チャック・ベリーの逮捕などで、アメリカのロックンロールは暗黒期に入りました。

フォークソングは、ボブ・ディランが台頭してからオリジナル曲が増え、歌詞の内容も人種差別反対や、戦争を批判するといったような内容のプロテスタントソングへと移行していったのです。

ボブ・ディランは、1960年代中頃まで、フォークの貴公子と呼ばれる存在でした。1964年にブリティッシュ・インヴェイジョンにより、ビートルズやストーンズが逆輸入の形でアメリカを席巻すると、ディランはイギリスのロックミュージシャンと付き合うことで、新しいフォークロックを模索していきました。

この動きがあったからこそ、ロックを生み出した国で、再びロックは復権していったのです。マイク・ブルームフィールドと、アル・クーパーによるスーパー・セッションや、ザ・バンドの台頭などは、ボブ・ディランなしでは語られない出来事です。

また、イギリスではビートルズがディランの影響を受けて、歌詞に深みが出てくるようになりました。ロイヤル・アルバート・ホールで演奏するディランの姿は、イギリスでの影響力を象徴する姿でした。

そして、ジミ・ヘンドリックスもまた、ディランに影響を受けた1人です。ライブで、ディランの曲ライク・ア・ローリング・ストーンを演奏し、アルバムで“All Along the Watchtower”をカバーするなど、主にボーカルを参考にしたといわれています。

ボブ・ディランは、1960年代のロックにおいて、重要な存在であったことがうかがえます。これらの優れたミュージシャンが、お互いに影響しあったことが、1960年代がロック黄金期と呼ばれる所以でしょう。

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